南三陸町の女子高校生"3つの愛"~ドキュメンタリー映画「うたごころ」の世界~

ドキュメンタリー映画監督 榛葉 健

あらゆるものが津波で流され、生命(いのち)という生命(いのち)が失われていた。広大な空間に、人間も、生き物もいない。植物も津波を被って枯れている。虚無の世界だった。
2011年5月1日。大阪から東京を経て2日がかりで辿り着いた、宮城県南三陸町。この日、初めて見た東日本大震災の津波の現場は、それまで経験したどんな光景とも違った。
以前、テレビの報道記者やディレクターとして、国内外の事件・災害の現場に数え切れないほど立った。中でも阪神・淡路大震災の時には、長く特別番組の制作責任者として、被災地に関わり続けた。世界最高峰チョモランマで2年間ドキュメンタリーの撮影をした時には、自分自身が2度命を落としかけた。そんな経験で、困難な現場でも冷静な判断が出来る、と思っていた。
だが南三陸町の荒れ果てた広大な空間に入って、私の思考は麻痺した。自分がどこに立っているのかがよく分からない、目の前に広がる光景が、地球上のものとは思えない…。30年近く、放送やジャーナリズムに関わって来て、"初めて"と言って良い「現実を受け入れられない」感覚だった。

そんな心持ちを引きずりながら、町内各地区の避難所に赴いた。その時私は、仕事ではなく、職場のボランティア休暇を取って、大阪を中心に活動する合唱グループの有志に同行していた。彼らの知人が、震災2週間目から南三陸町で長期支援を展開していたこともあり、避難所に赴き、長期間体育館に寝泊りしている女性やお子様たちに気分転換をしてもらう一環で、合唱を届ける…といったものだった。
2か所目の避難所。海際から山あいに入った小学校の体育館。彼らの歌声を聴きながら、一人泣いている少女がいた。
なぜ泣いているのか分からない。私は気になって、持参していた小型のビデオカメラを回し始めた。
たまたま避難所の世話役をしていた、町役場の職員が、ささやいてくれた。
「あの子、合唱部の子です」

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それが、後に映画「うたごころ」シリーズとなって、全国、海外で上映されるまでになった、主人公の女子高校生との出逢いだった。

少女は翌日、すべて流された自宅跡に案内してくれた。
親族5人を亡くし、家も家財道具もすべて失っていた
彼女は静かに語った。

「もしも次に、父ちゃん、母ちゃんに何かあったら、私は命を投げ打ってでも2人を助けます」

口を真一文字に結んでいた。目じりが涙に濡れていた。
絶望の中で、決意の強さがあった。

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実は少女と父は、血がつながっていない。自分の母の再婚相手だった。
血縁のない還暦の男性を「私の本当の父」と思っていた。
実の父親のことは、「言いたくない」。
10代の少女に、人生の機微が横たわっていた。

彼女は、高校では合唱部とボランティア部に在籍し、ボランティア部では部長もしていた。自分の避難所でない、高校の避難所では、被災したお年寄りや子どもの世話をしていた。自分のことをそっちのけで…。
つらい経験が、却って、誰かに優しくなれる。皆が支え合っていた。

そんな少女や家族、友だちの、ひたむきに生きる日々を記録し、全国で劇場上映、自主上映の要望に応えているドキュメンタリー映画「うたごころ」シリーズ。映画を通して、各地で「心に傷を抱える」女性たちを支えている。

▼富山にて

2012年秋、富山県。40歳代の女性が、年配の母の異変に気づいて、「気分転換に映画でも見に行こう」と声を掛けて町に出てきた。何気なく観た映画がたまたま「うたごころ」だった。映画を見終えた母娘がホールから出てきた時、母は突然しゃがみこみ、おいおいと泣き出した。驚いた私は、女性に聞いた。
お母さんは、長年続いていた祖母の老老介護に疲れ果て、けさ、自ら命を絶とうとしていたという。
しばらくして落ち着いたお母さんが語った。
「けさ私は、何をしようとしていたのか…。女子高生たちがあれほど苦しい中で生きているのに…。自分が恥ずかしい。やっぱり生きて行きたいです」

そう言ってまた泣き伏した。小さく丸くなった母の背中を、娘さんがさすっていた。
絶望の中を生きる少女が、見知らぬ家族を支えていた。

▼気仙沼にて

2013年3月、宮城県気仙沼市で500人規模の上映会をした。司会役の40歳代の女性は、津波で母と弟を亡くしていた。地震が起きて津波が来るまで約40分。その間、職場から車で実家に向かい、足の悪い母を高台に避難させるつもりだった。だが、家に戻る途中、道で弟に出会い、言われる。
「母ちゃんは俺が助けるから、姉ちゃんは先に避難してくれ!」
「分かった、あとよろしくね」
彼女はそう答えて、先に高台に向かった。
それが最後の会話になった。彼女は「2人を死なせたのは私」と自分を責め続けていた。

彼女には、「うたごころ」の内容を詳しく伝えず、一人の観客として観てもらった。鑑賞後、彼女は言った。
「この2年間、母と弟を亡くして、自分が身代わりになれば良かったと思い続けていました。でも『うたごころ』を観て、なぜだか涙が止まらなくなったんです。理由は分かりません。ただ、震災が起きてから初めて、『自分が生きていても許されるんだ』と思えました」
彼女は、泣いていた。

「うたごころ」には、被災地の人々を"外"から励ますような言葉は無い。南三陸町の現実や、そこで生きる人々の日常が映っているだけだ。そのありのままの映像から、司会の女性は自分の心を見つめ、自力で、 《生きる》方向に向かうきっかけをつかみ取っていた。


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主人公は、ただひたすら生きている。だがその小さな《生きる営み》は、映画を通して、確実に、多くの人の心を動かしている。

ひとことで言えば、彼女の生き方の中心にあるのは、「愛」だ。
血のつながらない父との間の、家族愛。多くを失った人同士の支え合う愛。そして、ふるさとの再生に役立ちたいと考える、郷土愛…。

個人レベルで言えば、勝ち組vs負け組などと振り分けられたり、拝金主義がはびこる現代社会。国同士で言えば、ナショナリズムや民族差別が跋扈する時代。何かと他者を蹴落としたり、排除することで、自分の存在を高める価値観が横行する今、彼女や三陸の人々が見せる心模様は、それらとは正反対の所にある。

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左:主人公の女子高生、右:筆者

「うたごころ」は、被災地を舞台にしているが、全国の、安全な場所にいる人々に「気の毒」「かわいそう」などと同情してもらうような映画ではない。むしろ過酷な現実の中で、「それでも生きていく」という少女の姿を通して、すべての人に、「あなたはどこに向かって生きていくのか?」を省りみてもらう映画だ。

一人の少女のひたむきに生きる日々。
そこから見えるのは、人間にとって普遍的なテーマ。
「共に生きる――」。

それを私は、30歳も年下の少女から教えられている。

(写真撮影:シギー吉田)

<映画「うたごころ」シリーズ>

▼公式サイト http://www.utagokoro.info/
 ※自主上映の相談、申込みは、こちらをどうぞ。
 ※予告編があります。
▼facebookページ http://www.facebook.com/Utagokoro
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監督 榛葉 健(テレビプロデューサー、ドキュメンタリーディレクター)

1963年東京生まれ。
1987年、在阪民放局入社。社会派から歴史、自然、スポーツドキュメントまで幅広くドキュメンタリーを制作し、日本テレビ技術協会賞、坂田記念ジャーナリズム賞などを受賞。
世界最高峰チョモランマの取材では、登山家が放置する大量のゴミを世界のテレビで初めて告発。同時に2年間かけて撮影した映像詩「幻想チョモランマ」は海外でも放送、高い評価を得た。
1995年以降、阪神・淡路大震災関連のドキュメンタリー15本を制作。そのうち『with…若き女性美術作家の生涯』は、「日本賞・ユニセフ賞」「アジアテレビ賞」など数々の国際賞を受賞。世界的反響を受け、2001年、日本のビデオドキュメンタリー番組として初の映画化。東日本大震災の発生後は、私費で宮城県南三陸町や気仙沼市などに通い続け、映画『うたごころ』シリーズを制作。全国の劇場や各地の自主上映で、大きな反響を呼んでいる。英語版、中国語版で海外上映も実施。

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